隠岐の島 西郷港久 3)年、承久の乱において後鳥10日本海に浮かぶ隠岐諸島は、島根半島の沖、大海原の中にある。松江市の七類(しちるい)港から島後(どうご)の西郷港まで、フェリーで約 2 時間 30 分。高速船だと境港市の境港から西郷港まで、約 1 時間 20 分の船旅である。日本海は荒れることが多く、この距離を船で超えることは難しく、流刑の地とされていた。1221(承羽上皇が島前(どうぜん)の中ノ島(現海士町)に配流され、この地で崩御した。1331(元弘 1)年、鎌倉幕府の討幕のため挙兵した後醍醐天皇は、島後(現隠岐の島町) に流された。後醍醐天皇は、約 1年で島を脱出し、足利尊氏らと討幕を実行した。さ ら に 古 く は、838( 承 和 5)年、小倉百人一首でも知られる小野篁(おのの たかむら)が、遣唐使などを批判したため嵯峨天皇の怒りを買い島後に配流されている。小野篁は、840(承和 7)年に赦免され、帰京した。篁が彫ったと伝えられる「あごなし地蔵」が、隠岐の島町上西都万目(つばめ)地区に今も残されている。隠岐諸島は、知夫村、海士町、西ノ島町からなる「島前」と、隠岐の島町だけの「島後」で構成されている。島々は、それぞれ特色のある伝統文化が継承されている。隠岐諸島は、この項で以前にも取りあげているが、今回は伝統から未来に続く、島人の状況に触れたい。今年、「隠岐の島町」では、12年ぶりに「第 15 回隠岐古典相撲大会」が開催された。隠岐古典相撲の歴史は定かではないが、今から 400 年ほど前に島内にある水若酢(みずわかす)神社の社殿改築徐時の勧進相撲として開催された記録が残る。江戸時代から昭和初期まで、島内で時折、開催されていたようだが、戦後、島の過疎化により、相撲大会の開催が滞るようになった。この状況を憂いた島の実業家たちが、再開を計画し、1972(昭和 47)年 11 月、水若酢神社大鳥東海大学海洋学部教授山田 吉彦島根県 隠岐諸島
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