11清水の町を流れる巴川上総稲荷神社船員ほけん 2025 . 5 . 6(1582)年 2 月、織田・徳川連合後 の 慶 長 6(1601)年 に 廃 城 とを三か所持った曲輪式平城(くるわしきひらじょう)で、巴川に面し、舟入が作られていた。武田氏は、この江尻城から駿河湾に乗り出し、他の地域と交易することを目指していたようだ。武田氏の本拠地である甲斐では得ることのできない「塩」を、確保することにも重要な役割を持っていた。天正 3(1575)年、武田信玄の跡を継いだ勝頼は、織田信長・徳川家康の連合軍と三河国、長篠で合戦を交え壊滅的な敗北を喫する。この時、山県昌景は戦死、昌景のあと、駿河支配を任された武田一門の穴山信君(あなやまのぶただ / 後に梅雪(ばいせつ)と号す)が江尻城主となる。信君は、天正 6(1578)年に、江尻城を高層の楼閣を持つ壮大な城に改修したという。後に、穴山信君は、織田・ 徳 川 方 に 内 通 し、 天 正 10軍に開城し、降伏している。武田氏滅亡後、信君の子・勝千代(かつちよ)(信治(のぶはる))が城代となり治める。関ヶ原の合戦のなっている。その後、江尻は、東海道五十三次の 18 番目の宿場町として栄えた。現在の江尻城址は、清水区の中心市街地にある。本丸跡に江尻小学校が建ち、二の丸、三の丸跡は、住宅街となっている。その一角に春風亭昇太師匠の実家があった。江尻小学校の敷地に隣接し、魚町稲荷(うおまちいなり)神社がある。穴山信君が江尻城の鎮護の神として社殿を造営したものが、この神社の前身であったようだ。郷土の城を研究していた昇太師匠から、清水にあったもう一つの城の話を聞いた。「袋(ふくろ)」という城だ。武田信玄は、駿河侵攻時の永禄 12(1569)年、馬場信春に命じ袋城を築き、水軍のひとつの拠点とした。この水軍は、旧今川水軍を母体とし、織田勢に駆逐された伊勢・熊野の水軍の一派を組み入れていた。水軍の本体は、江尻城の北東 3 キロメートルほどの「興津(おきつ)」に置かれ、その分隊が袋城に詰めていたと考えられる。袋城は、江尻城の南側約 1 キロメートル先の巴川の河口に築かれていたようだが、現在、遺構は全く残っていない。古文書に残された図面によると、角馬出(かくうまだし)で城門が守られ、曲輪は河に突き出し、船溜まりが設置されていた。現在、巴川岸にある上総稲荷(かずさいなり)神社の鳥居横には、袋城で使われていたとい石が二つ置かれている。この石も少年時代の昇太さんの城熱を高くした要因になったそうだ。
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